自身を殺害し、結婚し、受胎させる者。
男にして女、孕ませる者にして孕む者。飲み込む者にして誕生させる者。
能動であり、受動。上なるものであり、下なるもの。
( Neumann,1954)
私は、意識の及ばない時間に身体のみを委ねる。
その線や点は、私の奥から放たれる。
無意識の状態に近づけば近づくほど、表面に存在する物質は、内を叩き付ける。
魂が肉体と融合する。
その中で私が描き続けていること。
両面を持って存在すること。
女性的であり、男性的。強くて、弱い。暴力的で、狂気に満ちていて、優雅であり、神聖なるもの。
最後にあり、最初の誕生。
儚く確かな存在。
華やかでダーク。
すべての死、そして、すべての生であること。
ウロボロス(ouroboros, uroboros)は、古代の象徴の1つで、ギリシャ語で「尾を貪り食うモノ」と言う意味を持ち、自分で自分の尾をくわえて円になる蛇もしくは竜のこと。肉体を持った存在ではなく、ある概念を意味するモノである。
古代ギリシャでは、自分の口で自分の尾をくわえているその姿から、最初と最後が結びついた円、それは、始まりと終わりが無く、無限に回転を続ける事から「不死」「無限」といった意味を持ち、誕生と死の結合、自己の消尽と更新を繰り返す永劫回帰や無限、真理と知識の合体、創造などの意味を持つ。
ウロボロスとは、無意識の状態であり、物質世界の限界の象徴であり、無限大記号∞はウロボロスが由来という説もある。
ouroboros ウロボロス(うろぼろす) [ 日本大百科全書(小学館)]
自らの尾を噛(か)んで飲み込み円を形づくる蛇または竜のこと。円形は、始めと終わりが一致すること、いいかえれば始めもなく終わりもないことから、完全、永遠、不滅の象徴とみなされ、天地創成神話やグノーシス派で象徴図として用いられた。ケプラーによる楕円(だえん)運動の発見までは、月よりも上の天体は完全な円運動をし、月下界では不完全な直線運動をすると考えられていた。フランチェスコ・バルベリーニFrancesco Barberini(1597―1679)の「永遠」の擬人像は、豊かな金髪を肩まで垂らし、あげた両手に黄金の球を持ち、星をちりばめたドレスを着た女性の姿で表されている。そして、腰から下の大腿部(だいたいぶ)は蛇のように交差して合体し、ウロボロスのように円形をなして彼女自身を包み込んでいる。さらに、ユングによれば、錬金術の文献において、われとわが尾を食らい、交合し、孕(はら)ませ、殺し、再生させるウロボロスは、ヘルマフロディトス(ギリシア神話でヘルメスとアフロディテの間に生まれた男と女の両性をもつ息子)として、男と女、太陽と月、ヌース(精神)とピュシス(自然)など対立する二つのものから成っているが、同時にまたこの対立物の合一の象徴でもある。それは一方では死をもたらす毒、バジリスク(息や眼光で人を殺したといわれるギリシア神話の怪獣)にして蠍(さそり)であり、他方では万能薬であり救済者である。
女神ソフィアに関する神話より
私は最初にして最後のもの、称えられ蔑まれるもの、
娼婦にして聖なるもの、妻にして処女、不毛にして多産なるものなり
ダライ・ラマがカルマ(業)について述べた文(部分)
ダライ・ラマの般若心経より
生命は無限である。それには始まりも終わりもない。よって、行為、カルマもまた始まりもなく、終わりもない。カルマは無限である。いわゆる無限大のカルマがあることになる。
サンスクリット語原典訳の般若心経(部分)
現象を形作る5つの集積したものをよく見極め、その本質が空であることであると見徹すべきである。
形あるものは空であり、空は実に形あるものである。
形あるものは空以外のものではなく、空は形あるもの以外ではない。
形あるものが意味するのは空であり、空が意味するものは形あるものである。
同じように、感じるものも、識別することも、心が作りだすものも、認識も空である。
かくの如く、シャリプトラよ、すべての現象は空を特質とする。
それらは生じず、減せず、汚れず、清純でなく、完全ではなく、不完全でもない。
したがって、シャリプトラよ、実に空においては、
形あるもの、感じるもの、識別することも、心が作り出すものも、意識もない。
眼なく、耳なく、鼻なく、舌なく、身なく、心もない。
形なく、音なく、臭いなく、味なく、触れるものもなく、現象もない。
視覚が捉える要素がないのと同様、意識の捉える要素も、現象上の要素も、認識する要素もない。
知もなく無知もない。どこまでも知や無知が尽きることもない。
老死はなく、不老不死もない。苦はなく、始まりがなければ終わりもなく、悟りに至る道もない。
叡智もないし、達成することも達成しないこともない。